資料提供者 ?森脇 五郎(国立遺伝学研究所名誉所員)からの御寄稿?
理研の仁科芳雄先生
(107)仁科先生と放射線生物学 日本物理学会誌 45巻(10号)特集「仁科芳雄生誕百年記念」(1970年)
わが国の原子生物学の祖といわれる、仁科芳雄先生が理化学研究所で独立の研究室をもたれたのは1931年である。爾以来次々に重要な研究を開発されたが、最後に全力を投入された大仕事は、戦後占領軍当局から理研に対して解体命令が来た時、先生は次から次へとつづく難関を越えて1946年ついに株式会社科学研究所を設立し、研究活動継続を可能にされた。
先生は1923年から数年間コペンハーゲン大学のニールス・ボア教授のところで勉強されたことがあるが、そこに滞在していた有名なヘベシー博士(アイソトープを生物に利用した最初の人)の影響をうけ、生物学に興味をもたれるようになった。
仁科研究室で日本における最初のサイクロトロンからビームが出たのは、1937年4月3日の朝のことだが、先生は早速原子核研究室にいられた村地孝一氏にこのビーム(中性子)を生物に当てて結果を出すようにいわれた。村地氏は早速東大放射線科の中泉正徳教授の援助の下に、ハツカネズミに対する中性子の作用を見て、Nature 140(1937年)に発表された。先生の関心はさらに細胞学、遺伝学にもひろがっていった。遺伝学については私が嘱託され、1939年(昭和14年)から先生の御希望でサイクロトロンを使って中性子とX線との遺伝的影響を比較して突然変異に差があるかについて調べた。これに関連して、宇宙線が突然変異誘発に有効に働くという、ヨロス(V. Jolls)の実験が発表されたので、これを調べるため、仁科先生の命により清水トンネル内の理研実験室にショウジョウバエを持込み、外界と比較する研究を行った。仁科先生は、御自身も放射線生物学の先頭に立たれて週1回のコロキウムをはじめられた。このコロキウムは戦後立教大学に移られた村地孝一氏を中心として、“放射線生物研究会”となって再発足した。仁科先生はまさに日本における放射線生物学の先駆者であられた。