枯草菌(こそうきん、Bacillus subtilis)

枯草菌は毒性の無いグラム陽性、胞子形成菌として40年にわたり分子生物学の研究対象となってきた。身近では納豆菌が親戚である。その特徴は分子遺伝解析が非常に進んでいることと、胞子形成、蛋白分泌、抗生物質生産、DNA形質転換をおこなうことである。これらの特徴を生かして、染色体複製の遺伝的制御、遺伝子内微細マッピング、転写制御因子シグマカスケード、相互に入り組んだシグナル伝達系、糖代謝のカタボライト抑制機構など多くの分子遺伝学の研究が行われてきた。さらに1997年には待望の全ゲノム配列が決定公表された。引き続き遺伝子破壊による機能未知遺伝子群の解析が国際協力体制で進みつつある。かくして分子遺伝学上の基本概念を発信してきたグラム陰性腸内細菌の大腸菌を補完してあまりある実験材料としての貴重な地位を築くに至った。

枯草菌を用いた研究は多分野におよび枚挙に暇が無いが、実験生物としての有用性について胞子形成を例にとる。枯草菌はブドウ糖が消費尽くされるとすみやかに胞子形成過程へ突入する。初めにリン酸をリレーするシグナル伝達系が作動しSpo0A蛋白がリン酸化する。Spo0A-Pはその後の胞子形成に必須の一連の遺伝子転写誘導合成のスタートとなる転写制御因子である。Spo0A-Pによって結果的には転写開始因子シグマが5種類誘導合成される。これらのシグマは不等分裂で出来た胞子と母細胞に振り分けられて活性化し、遺伝子の分別転写を司る。胞子細胞から母細胞へ細胞間シグナルが伝達され母細胞遺伝子の転写を誘導し胞子形成が進行する。この過程にはこのほか染色体の再配列や分泌ペプチドによる細胞濃度監視システムがある。細胞機能が分化する過程としては恐らくもっとも詳細に首尾一貫した解析がなされている系であろう。登場人物こそ違え類似の現象が他の生物でも徐々に発見されるであろう。例えば胞子形成開始時のシグナル伝達は酵母浸透圧応答シグナル伝達や植物シロイズナズナのエチレン応答シグナル伝達にも保存されている。

このように枯草菌は胞子形成を例にとっても、糖代謝、細胞分裂、染色体複製制御、細胞周期、シグナル伝達、転写制御、分子シャペロン、染色体最配列など、今まで個別に研究されてきた分野の知識が統合する微生物分子遺伝学の集大成の実験場としての様相を呈してきている。ゲノム解析に立脚した機能未知遺伝子解析がこの分野の研究に拍車をかけることは間違い無い。この実験系は他の、少なくとも、微生物の遺伝子発現制御研究に多くの示唆を与えるであろう、と言う意味で基礎研究にとって有用である。

枯草菌に関するウエッブサイトは、フランス・パスツール研のゲノムホームページである。

定家義人、小笠原著「蛋白質核酸酵素, Vol.43,p1289,1998」(共立出版)より引用

枯草菌胞子形成の概念図

枯草菌胞子形成の概念図

栄養源(主にブドウ糖)が無くなると通常の細胞分裂が止まり増殖もやがて止まる。しかし染色体は倍加し、不等分裂が起き、大きさの違う母細胞と胞子細胞に振り分けられる。胞子細胞は母細胞に取り込まれ、コート蛋白などに包まれて胞子として成熟する。この一連の過程には多くの遺伝子の逐次発現が必要である。この逐次発現を支配するのがRNA合成酵素のシグマ(σ)因子である。胞子形成以前の細胞ではσAが存在するが、胞子形成が始まるとσHが誘導合成され胞子形成に必要な遺伝子の転写を行う。やがて母細胞でσEとσKが、胞子細胞でσFとσGが相次いで誘導合成されそれぞれの細胞で違った遺伝子の転写を行う。バクテリアながら遺伝子発現を巧妙に行い細胞機能を分化させ、染色体の2コピーのうちの1つを耐熱耐寒耐乾燥カプセル胞子に載せて後世に伝える利己的遺伝子の涙ぐましい努力の過程である。

原図、資料:定家義人

page top