生物のもっている遺伝子DNAはその遺伝情報にもとづいて特殊な酵素を含むあらゆるタンパク質、糖、脂質などの生成を指令し、このような生体高分子の生成を通じて、生物特有の形、大きさ、色彩など目に見える形質の発現に関与している。さらに脳、神経、筋肉などによって現される行動や神経活動なども、遺伝子によって規定されていると考えられる。
「基礎遺伝学」(黒田行昭著:近代遺伝学の流れ)裳華房(1995)より転載
- 細胞分化と遺伝子作用
このような遺伝子の働きが、生物の発生過程でどのようにその作用を現し、生物の形態形成や、特殊な機能をもつ各種器官の組織の形成、細胞の分化に関わっているかは興味のある問題である。生物のもつ遺伝情報の担い手である染色体の一部が、体細胞と生殖細胞の分化に関わっていることは、ウマノカイチュウ(Ascaris megalocephala)やタマバエの1種で、発生初期に染色体の一部が消失し、染色体の一部を失った細胞が体細胞に、染色体を完全に保持している細胞が生殖細胞になるという研究によって示されている。
核の中に組込まれた遺伝子DNAは、細胞分裂の際に、もとの細胞と同じ塩基配列をもった完全なコピーのDNAを複製し、それぞれの細胞に分配されるので、1個の受精卵の卵割の結果生じた多数の生体を構成する細胞は、すべてもとの受精卵のDNAを完全な形で分配されているはずである。したがって、生体を構成する種々の器官、組織、細胞で、その形や機能が異なるのは、同じ遺伝子をもっていながら、作用を現す(発現という)遺伝子と、作用を現さない遺伝子があるからである。
このことが実験的に証明されたのが、BriggsとKing(1957)のカエル胚を使った核移植の実験である。これはカエルの発生の各時期の細胞の核を、未受精卵の脱核した細胞質に移植するという実験である。この結果明らかになったことは、胞胚期までの細胞核は未受精卵の細胞質に移植しても正常に発生して成体にまで達するが、襄胚、神経胚、尾蕾期と発生の進んだ胚の細胞核を未受精に移植すると、しだいにその発生能力が失われてゆくことがわかった。
すなわち、未受精卵の中の核ではまだすべての遺伝子が将来発現する能力をもち、全能性(totipotent)であるが、発生が進むにつれて、その能力がしだいに失われ、多能性(multipotent)から最後には単能性(unipotent)に変化してゆくという不可逆的な変化をたどることが明らかになった。
生体内の神経、筋肉、血球などそれぞれ特徴のある細胞では、細胞のもつ遺伝子の中で、それぞれの特徴を現すのに必要な遺伝子のみが発現しており、他の遺伝子は発現していないという組織特異性(tissue specificity)がある。またその遺伝子の発現する時期も、発生のある特定の時期だけに発現するという時間特異性(time specificity)をもっている。「基礎遺伝学」(黒田行昭著:近代遺伝学の流れ)裳華房(1995)より転載
- ホメオティック遺伝子
生体内の多くの器官、組織、細胞で発現する遺伝子の作用については、かなり詳細な研究が行われている。発生初期の体の体制や構造など、最近、大きな体の組立に関する遺伝子の作用について、しだいに明らかになってきた。このような研究は、主としてキイロショウジョウバエで行われ、体のある一部の組織や器官が別の組織や器官になるという大きな変化で、表1・3に示したように成虫のハエの胸部が腹部になったり、体節が消失したり、重複したり、下唇が触角や肢になるという変化を起す遺伝子が見いだされた。これをホメオティック遺伝子(homeotic gene : 相同異質形成遺伝子)という。
キイロショウジョウバエでは1齢幼虫の体節に欠損を起す遺伝子の突然変異が数多く見いだされており、“節足らず”(ftz)遺伝子では体節が一つおきに欠損する。また、成虫では表1・3に示したアンティナペディア(Antennapedia, Antp.)遺伝子群やバイソラックス(Bithorax)遺伝子群がよく知られている。これらのホメオティック遺伝子はクローニングにより、その遺伝子DNAの塩基配列も明らかになり、たとえばアンティナペディア遺伝子群では8個のエクソンを含む108キロ塩基対のDNAがあり、バイソラックス遺伝子群では多くのエクソンを含む73キロ塩基対、および25キロ塩基対のDNAからなっている。表1・3:キイロショウジョウバエのホメオティック遺伝子(堀田・岡田編, 1989)
遺伝子 遺伝子記号 機能欠損変異の表現型* アンテナペディア遺伝子群 labial (lab) 下唇の部分的欠失 proboscipedia (pb) 下唇鬚→触覚または第一肢 zerknullt (zen) 視葉の形成不全と頭部陥入不全 Deformed (Dfd) 複眼縮小、触覚と下顋鬚の重複 Sex combs reduced (Scr) 下唇→下顋、前胸→中胸 fushitarazu (ftz) 体節数の減少 Antennapedia (Antp) 中胸、後胸→前胸 バイソラックス遺伝子群 Ultrabithorax (Ubx) 中胸後部から第1腹節まで(第5、6準体節)→前胸後部から中胸前部まで(第4準体節) anterobithorax (abx) 中胸後部→前胸後部、後胸前部→中胸前部 bithorax (bx) 後胸前部→中胸前部 bithoraxoid (bxd) 第1腹節前部→後胸前部 postbithorax (pbx) 後胸後部→中胸後部 infra-abdominal 2(またはabdominal A) (iab-2またはabdA) 第2腹節→第1腹節 infra-abdominal 3 (iab-3) 第3~6腹節→第2腹節 infra-abdominal 4 (iab-4) 第4腹節→第3腹節、生殖巣の欠失 infra-abdominal 5 (iab-5) 第5、6腹節→第4腹節 infra-abdominal 6 (iab-6) 第6、7腹節→第5腹節 infra-abdominal 7(またはAbdominal B) (iab-7またはAbdB) 第8腹節→第7腹節 infra-abdominal 8 (iab-8) 第8腹節→第7腹節 *:ここに示した表現型は代表的なものである。変異によっては、これ以外の形態変化を示すものもある。 「基礎遺伝学」(黒田行昭著:近代遺伝学の流れ)裳華房(1995)より転載
- ホメオボックス
これらのホメオティック遺伝子には共通して、ホメオボックス(homeobox)という180塩基対からなるDNAを含んでおり、60個のアミノ酸をコードするが、各ホメオティック遺伝子のホメオボックス塩基対の類似性は70~80%である(図1・21)。
このようなショウジョウバエのホメオティック遺伝子のホメオボックスのアミノ酸配列とよく似た配列をもつタンパク質が、酵母の接合型を決定する遺伝子産物にも見いだされた。また、アフリカツメガエルでも、胚のある特定の発生時期にのみ出現するmRNAをコードするDNAにもホメオボックス類似の塩基配列が見いだされ、胚の形態形成に重要な役割をもつと考えられている。
マウスでもホメオボックスに類似の塩基配列をもつDNAがクローン化されている。これはマウスの第6染色体にあり、形態形成に関与する。ヒトでは図1・21に示したように、ショウジョウバエのホメオボックスと90%の類似性をもち、61個のアミノ酸をコードする塩基配列をもつDNAがクローン化されている。このほか、ミミズやカブトムシ、ニワトリなどの動物でも、ホメオボックスに類似の塩基配列をもつDNAが見いだされている。以上のことからホメオボックスをもつDNAは、かなり一般的に多細胞生物の体制や構造の形成において、組織、器官を構成する細胞の配列や接着に関与しているものと考えられる。「基礎遺伝学」(黒田行昭著;近代遺伝学の流れ)裳華房(1995)より転載