なぜ「色覚異常」「色覚障害」「色弱」などではなく「色盲」なのか?


 「色盲」という言葉は最近は使われなくなってきており、「色覚異常」もしくは「色覚障害」等の表現が使われることが多くなってきました。それは「盲」という言葉に差別的なニュアンスがあることと、色盲が大抵の色を判別することができるにも関わらず、色覚の全盲であるという誤解を招くという懸念からであります。我々は現在のところ自然科学者の分野を対象として、バリアフリープレゼンテーションの普及活動をしており、そこであえて「色盲」という言葉を使っています。ここでなぜ「色盲」という言葉を使い「色覚異常」「色覚障害」「色弱」という言葉を使っていないかを説明するのと同時に、 このような言葉の言い換えを議論することが無意味であることについて述べたいと思います。


■■ 「異常」と「障害」という言葉について ■■

 我々は多少なりと遺伝学の素養がありますので、色盲は「ポリモルフィズム(遺伝的多型)」であり「異常」ではないと考えておりま す。「遺伝的多型」というのは、ちょうど血液型にA型B型などさまざまなタイプがあるように、ある遺伝子に何種類かの異なったタイプが存在する、という意味です。何種類のタイプのうち、そのようなタイプの遺伝子を持っている人はほとんど生き延びることができないとかいう場合には、それを正常・異常というふうに区別することも不可能ではありません。しかし色盲の場合、人類の長い歴史の中で、男性の5%以上という高い頻度で存在し続けているわけですから、生存に不利なものでもなく、極端にめずらしいものでもありません。従って色盲は、「異常」と定義するよりも「遺伝子のタイプ」と認識すべきです。

 ABO型の血液型に例えて説明しましょう。A型糖鎖やB型糖鎖を欠いているO型は、A型やB型の血液など「ある種の特定の溶液」に対して凝固反応 を起こす能力に欠けています。これは赤色色素遺伝子が欠けていることにより「ある種の特定の波長」に対する反応に欠けているのと同様です。O型の人を「異常」であるというでしょうか。一方で、大多数の人に比べ異なることを「異常」とするのであれば、AB型の人が「異常」ということになります。色盲はAB型の血液型とほぼ同じ頻度で存在することからも、「正常」「異常」でわけるべき問題でないことがわかります。

 「障害」という言葉に関しても「害」という字の持つ意味に関して考えさせられます。もともと「障害」は仏教用語の「障碍」(しょうげ)でありますが、現在では当て字で「害」が使われています。「碍」は「碍子」に使われるように妨げる、邪魔をすると言う意味で、「害」のような悪いニュアンスはありま せん。しかし常用漢字の関係で「障碍」を「障害」に置き換えてしまったため、「害がある」「有害である」という悪い意味が入ってしまいました。

 このように色覚「異常」とか色覚「障害」という表現は、色盲の人は「正常でない」「害を持っている」ものであるという価値判断を根底に含んでしまっています。これにくらべ色「盲」という言葉は、色が「見えない」という客観的事実だけを表現しており、無用な価値判断を含んではいません。従って「色覚障害」や「色覚異常」よりは「色盲」の方が、正確で問題が少ない表現だと思っています。

 「色盲」という言葉が差別的に使われたことがあるからといって、他の言葉に言い換えれば問題が解決するものではありません。言い換えによって、自分の眼の色覚特性を「異常」だとか「障害」だとか決めつけられることは、かえって差別的に感じます。英語だと、色盲は colour blind です。これは差別的に感じませんが、「abnormal colour sensation」と言う表現は、「normal でない」と言われているわけですから、差別的に感じます。

 先日、これまで「精神分裂病」と呼ばれていた疾患名が「統合失調症」に変更されました。「分裂」にしても「失調」にしても状態を示す表現であり 「価値判断」を含んでいません。どちらも中立的な表現で言い換え前後に「価値判断」という意味では変化はありません。それに対し、「色盲」から「色覚異常」や「色覚障害」への言葉の言い換えは、言い換え前よりもむしろ悪化していると言えます。

 

■■ なぜ「色弱」という表現を使わないか? ■■

 現在では学問的に「色弱」という定義は無くなりました。バリアフリーを考えるにあたっては、より程度の重い「いわゆる色盲」を念頭におくべきであ り、それに対してバリアフリーを実現すれば「いわゆる色弱」の人が抱える問題も全て解決できます。このような目的を考えますと、「色盲の人は色が見えないが、色弱の人はかなり色が見える」「色盲と違い色弱は矯正できる」などの迷信に近いものを抱える「色弱」という表現は、むしろ誤解を生じやすいと 言えます。同じ症状を抱えた社会的弱者という点では、色弱と色盲に何ら差はないわけです。歴史的に、色弱という言葉は「色盲」という言葉のかかえる差別的ニュアンスと表裏一体で使われてきた言葉であり、「自分は色弱だが色盲ではない」というふうに考えること自体、色盲への差別意識を含んでしまっていると言えます。

 

■■ なぜ言葉の言い換えを議論することが、無意味で有害なのか? ■■

 過去数十年間、ずっと言葉の言い換えが議論されてきましたが、そればかりにエネルギーが費やされ、具体的な提言が出ていません。大切なのは、色盲の人が暮らしやすい社会を作ることであります。それが達成されれば、色盲への差別も根拠がなくなり、 自然に消滅してゆくと考えられます。そのような社会を作るためには、色盲の人しか気付かないような具体的で建設的な提言をしてゆくことの方が重要です。

 トップダウン方式で、雇用時の差別の問題、資格試験の合否判定の問題などを解決するには、言葉の定義は非常に重要です。しかしながら、言葉の問題で力つきているようではバリアフリー化は実現できません。問題の具体的な解決策を提言することが優先されます。「障害」や「異常」という定義づけから、そのような問題は色盲の人自身が治療もしくは矯正することによって解決すべき問題と捉えられては、バリアフリーな社会の実現は難しくなります。「2色型色覚」等の新しい言葉を用いることも可能でありますが、我々の最初の目標は、色盲でない人達に、色盲の人が社会生活の中でどのようなことに困っているかとい う現実的な問題を知ってもらうことであります。その目的から、最も一般的に浸透していると考えられる「色盲」という表現を使うことによって、「色盲」という言葉を耳にしたことがある多くの人にバリアフリー化するための具体的な方法を知ってもらいたいと考えております。

 我々の求めている色のバリアフリーは、判断を強いられる情報に対して、色の区別ができないことを理由に判断できないという状況を無くすことであります。AB型の血液型の人が、幾ら望んでも自分の血液型をA型やB型に「治療」したり「矯正」したりできないのと同じように、色盲は遺伝で決まってしまい、あとから治療したり矯正したりすることはできません。色盲の症状を「矯正」する効果がある(あるいは、色盲は矯正できないが色弱なら矯正できる)という色覚補助具が、いろいろ研究開発されていますが、これらはたとえてみれば、脚の悪い人に対する車椅子のようなものであると言えます。車椅子 で移動が出来るようになったからと言って、それは脚が悪いことが「矯正」できたわけではありません。あくまで「補助具」です。使いやすい車椅子を開発することはもちろん大切ですが、脚の悪い人にも優しい街づくりを進めることは、それとは別の問題であると考えます。色覚についても同じことです。色覚補助具を用いることで、色弱や色盲が「矯正できる」と社会に思われては困ります。それに対し、見る人にどの色とどの色を区別させるかという色使いの方は、きちんと配慮すれば効果的な色の組み合わせがあり、不都合な組み合わせなら簡単に変えられるわけです。矯正できない症状を持つ色盲の人の方に対応を強いるのでなく、いくらでも変化の選択肢がある社会の方が、対応する必要があるのです。


 言葉の問題の内、最も優先にすべきことは「色盲のバリアフリー」の啓蒙活動に関して、眼科学会を始め、「色盲のソサエティー」もしくは「色盲の問題に関わる人たち自身」が抵抗力になることだけは避けねばならないと思っています。皆様からの御意見、御感想をいただき、次の機会に活かしていきたいと思っております。例え小さなことであってもお気付きの点がございましたら、是非とも御指導くださるようお願いいたします。

 

註:

 上記の考えに従い、私たちは2002年より「色盲」という言葉を使ってきましたが、この言葉にはどうしても差別語として用いられてきてしまったという歴史がつきまとうために、色覚の問題に関心が深く、色覚バリアフリーに熱心に協力していただける方ほど、この言葉を口にしづらい傾向があるという問題が浮かび上がってきました。

 たとえば、私たちが自分を「色盲の人」と呼んでも、会話をしている相手の方が色盲という言葉を避けて、「色覚に特性のある皆さん」のような婉曲な言い方をしてしまいます。このような配慮を相手に強いるのは、私たちの本意ではありません。また、行政や報道の場でこの問題が取り上げられる際にも、色盲という言葉が使いづらいために、やむなく色覚異常や色覚障害といった言葉に置き換えられてしまうケースがありました。

 そこで、誰もが口にするのに一番抵抗感が少ない言葉という点から検討しなおした結果、勝手ではありますが2004年末より、「色弱」という言葉を主に使うように方針を変更しました。この言葉には上記のような欠点もあるのですが、程度の軽重を問わず全て「色弱」と呼ぶことを明確にすることで、このような欠点はある程度カバーできます。従来の色盲が「強度の色弱」、従来の色弱が「弱度の色弱」ということになり、表現としては若干おかしなところも出てきてしまいますが、一方で、「色弱者」という言葉は「色弱の人」だけでなく「色の弱者」という意味にもなります。これは「交通弱者」や「社会的弱者」と同じで、一定の配慮や施策が必要な人たちを、差別的な語感を含まずに形容することができます。その意味でも、色弱という表現には意義があります。

 また、この方針変更の際にセットとして、いわゆる「正常色覚」を含むすべてのタイプの色覚を正常・異常や優劣の観点を含まずに対等なものとして呼び分けるために、血液型の呼称にならってアルファベット1文字であらわす方法を導入しました。従来用語の第1色盲、第2色盲、第3色盲、全色盲は、国際的に用いられている専門用語の頭文字を取ってP型、D型、T型、A型と表し、従来固有の名称を持たなかったいわゆる「正常」の色覚は、一般型(common type)という言葉からC型と名付けました。これによって、すべての色覚をCP DTAの単純な1文字で表せるようになりました。

 公刊された論文やPDFの形でいちど公にしたものは、後から内容の変更をするわけにはいきませんので、このホームページ中でも作成された時期によって用語の変遷が生じています。以上のような経緯をご理解いただけますと幸いです。

 


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岡部正隆( maokabe@jikei.ac.jp )にお寄せください。

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